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「ふぁみりお」の第5号では、「いま、日本の子どもたちは幸せか」というテーマのもとに、子どもの問題を特集しています。 そこでは、子どもに悪魔という名前をつけようとして新聞紙上を賑わしていた、いわゆる「悪魔ちゃん」事件を取り上げています。子どもは親の愛玩物や所有物ではなく、親とは別個の人格を持った存在であることを親が自覚し、自分の子どもに対する愛情を自分の主義主張だけで考えるのではなく、子どもの視点に立って考えるべきであると指摘しています。 そのほか、フィリピンなど東南アジアの女性と日本人男性との間に生まれた子どもが無国籍児となっている問題、未婚の母の子ども、つまり非嫡出子が相続分その他で不利な扱いをされている問題、いわゆるお受験ママによって振り回された子どもと父親のケースなどを紹介しています。大人の無責任さや身勝手さが、子どもに差別・不利益・不幸せをもたらしている現実が数多くあることが分かります。 第6号では、「かあちゃんはすぐ“あんな奴”というけれど…」というテーマのもとに、親の離婚を子どもの側から考える特集をしています。 離婚は夫婦二人だけの問題のように思われがちですが、そこには二人の間で、悩み苦しむ子どもたちがいるのを忘れてはならないこと、また、両親は別れてお互い他人になれても、子どもにとっては、いつまでも父は父、母は母に変わりないことを親は自覚して子どもに向き合うことの大切さを強調しています。親の片方がもう一方の親の悪口を言えば、その親の血を受け継いでいる子どもにしてみれば、自分が悪口を言われているように感じて傷ついたケースを紹介しています。さらに、「親の離婚に揺らぐ子どもたち」というテーマで、どちらの親にも愛されたい子どもの心理と我慢の糸が切れた場合の問題行動などに触れ、離婚するまでは対立当事者であったとしても、離婚後は、親のニーズよりも子どものニーズを優先させ、子どもの幸せを共に考えるパートナーへと変身することの大切さを説いています。 |
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第7号は、「キーワードで見るいじめの構造」というテーマで、FPIC会員へのアンケート結果の分析をもとに、いじめのメカニズム、原因、防止策などについて論じています。 いじめの根底には、異質排除、優者への嫉妬、劣者への軽蔑などの差別意識があり、相手の個性はもとより、人間の尊厳そのものを否定しようとするもので、スケープゴート(生けにえ)を血祭りに上げて陰微な楽しみを味わっているとしています。いじめっ子には、いじめられた体験を持つ者が多いのは、自分がみじめで哀れな姿をさらした体験があると、かつての自分と同じようにみじめな姿をさらす者を見ると、自尊感情が傷つけられるからです。そこでこれを排除しようとしていじめると、相手がますます卑屈な態度をとるので、いじめる方はますます傷つくという悪循環が起こり、極端な場合は相手をも抹殺しかねなくなるとしています。学歴偏重の競争社会の中で、傷つきやすい自尊感情を守るために、スケープゴートを踏みつけにして、自分より下にもっとダメな奴がいると思うことで、相対的に自分の序列が上であることを確認しようとしていじめが行われると指摘しています。 いじめを防止するためには、まず、いじめられた子どもたちが、安心して被害を訴えられる状況をつくる必要があることは言うまでもありません。それと同時に、いじめっ子たちの低下している自尊感情を回復させることが必要であり、そのためには他の人の役に立ったという実感、体験を持たせることが効果的な方策であるとして、非行少年を社会奉仕活動に参加させて自尊心の回復を図っている例を紹介しています。 |
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第10号では、「子育てが虐待に姿を変えるとき」というテーマで、乳児虐待はなぜ起こるのか、乳児虐待という悲劇から子どもと母親を救うためにはどうすればよいのかを論じています。 乳児虐待が増加した要因として、ます、激変した育児環境を挙げています。昔であれば小さいときから弟妹の世話をしたり、育児の手助けをしたり、子どもが生まれれば、実家の母親や姑、さらには近所のおばさんやおばあさんまでが、寄ってたかって育児の仕方を教える風土がありました。核家族化と少子化が進み、地域とのつながりが薄れた今日では、育児は若い母親のみの孤独な仕事となっています。母親は巷にあふれる雑誌やテレビから得た断片的な知識や情報を頼りに、わが子の発育や行動が標準よりズレているといっては不安や焦りを感じながらの孤軍奮闘を強いられます。特に、それまで順風満帆できた母親にとっては、思いどおりにいかない育児に初めて挫折を感じ、さらに赤ちゃんが夜泣きなどして夫に母親失格のように言われると自尊心が傷つき、心身の疲労が限界に達すると、瞬間的に赤ちゃんが憎らしくなって、つい虐待してしまい、後で深い罪悪感に襲われて打ちひしがれることになると指摘しています。 乳児虐待を防ぐためには、子育てを母親だけの孤独な仕事とさせないで、父親も積極的に育児に参加し、協同作業としての子育てを確立していく必要があることを強調しています。保健所が実施している両親学級や両親教室などには、夫婦そろって参加するなどして父親の自覚を高めることのほかに、同じ悩みを持つ母親のグループにも積極的に参加して、自分だけがうまくいかないのではないことを知り、落ち着いた気持ちで育児ができるようになることを勧めています。 |
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第15号では、「変身する子どもたち」というテーマで、おとなしい良い子と思われていた子どもたちがどうしてすぐキレるのかについて考察しています。 人間は、本能や欲求のおもむくままに行動することは許されず、小さいころから親、きょうだい、友達、先生、あるいは世間の目などによって形作られた自我(自分らしさ)や自尊心を基準に行動しています。したがって、自分の行動が非難されると、多かれ少なかれ自我や自尊心が否定されたかのように受け止められますが、人間は自我や自尊心が深く傷つけられたとき、攻撃性を爆発させやすく、つまりキレやすくなるとしています。 幼い子どもたちは、自我を確立していないので、試行錯誤しながら、やっていいことと悪いことの行動基準を体得して自我を築いていきます。この試行錯誤が許されず、親やきょうだいとの衝突やけんかで自分のとった行動の善し悪しが示されず、先生や世間の目からも非難されないままに大きくなると、行動の基準を決める自我がいつまでも不安定で、自信が持てないことになり、外見上はおとなしい子どもに育っていきます。このような子どもがその行動を非難されると、追い詰められたかのように思いもよらない過剰な反応を示し、それこそプッツンしたとか、キレたとしか言いようのない事態を招くことになります。 子どもは悪戦苦闘しながら自分らしい行動の基準を築き上げていくことによって、強くなれるのですが、親が、子どもに嫌われたくないために、子どもに善悪のけじめをはっきりと示さないと、子どもはいつまでも不安定な自我しか持てないことになり、ちょっとした非難にもキレやすくなると説いています。 |
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第16号では、「少年法について考える」というテーマのもとに、少年非行の推移を踏まえて現状を正しく理解するための解説をしています。 少年による凶悪事件は、昭和34年の8213件をピークに減少し、平成8年には1711件となっており、殺人事件は、昭和36年の382件から最近は50件程度まで減少していることから、少年非行は決して凶悪化していないことを指摘しています。それにもかかわらず、少年非行全体が凶悪化していると誤解して、厳罰主義を強化する必要があるというような一般的風潮に警告を発しています。 第17号では、「14、5歳の子どもたち」というテーマのもとに、年少少年と呼ばれる思春期の中学生について考察しています。親や先生が権威を失い、子どもたちから敬意を払われなくなると、単に家庭や学級の崩壊を招くだけではなく、子どもの自我の確立にとっても大きな障害になるとして、これは権力や厳罰で片付く問題ではなく、教育やこころの問題としてしか解決できないことを説いています。 第22号では、「若者たちの社会的引きこもり」というテーマのもとに、挫折体験をきっかけに、長期にわたって世間を避けて、自室に引きこもる若者たちを取り上げています。学歴信仰に取りつかれた親の期待に添って学歴マラソンを走らされ、挫折して初めて親の価値観に振り回されていた自分の実像に気づき、焦り、恥ずかしさ、自信喪失などのために人前に出られなくなった若者、自分の価値を見出せないで苦しんでいる若者たちについて考察しています。 |
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親の離婚に悩む子どもたち、いじめに苦しむ子どもたち、キレやすく変身しやすく育てられる子どもたち、厳罰を科すべきだとされる非行を犯した子どもたち、自分の価値を見出せずに苦しむ引きこもりの子どもたち、君たちはいま幸せかと問われて、どう答えるのでしょうか。 社会から子どもたちを守れという今世紀初頭の理想は、いまや子どもたちから社会を守れに変わってしまったのでしょうか。 この世紀末においてもなお、20世紀は本当に子どもの世紀だったと言えるのでしょうか。 そして来るべき21世紀について、いま大人たちはどのような言葉を子どもたちに贈ることができるのでしょうか。 |
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