今どきの子どもたち
いつの時代でも、大人たちは子どもや若者たちを安心して見ていることができず、事あるごとに「今どきの子どもたちは……」と悪口を言います。自分たちはそのような子ども時代を過ごしたことがないような口ぶりです。ここに今どきの子どもたちについて書かれた四篇の随想を紹介しますが、悪いところばかりでもないように思われます。
1 ものは考えよう
 最近の子どもたちは、万事につけいちいち言ってやらないと、自分からは何もできない「指示待ち族」だと評判が悪い。
 中には、いや下手に勝手なことをやられるよりは、こちらの指示に素直に従うので結構なことだと言う人もいる。
 犬の訓練士によると、「待て」を教えこむのにどれほど苦労することか、「待て」ができるようになれば、あとのしつけは楽なものだとのこと。そう言えば、餌を前にして「待て」の訓練を受けている。犬をテレビで観たことがあるが、餌が欲しくてからだをぶるぶる震わせていたので、難しい調教なのだと思ったことがある。こうなると指示待ち族が一概に悪いとも言えなくなる。
 知人のAさんは、自分の息子さんを「グズでノロマで意気地なし」と思っていたが、中学に進学したら通信簿に「慎重で思慮深く思いやりがある」と書かれていた。子どもを褒められて嫌な親はいない。Aさんは、自分の見方を変えたところ、息子さんのすることがなんとなく頼もしく見えるようになったという。
 「独りよがりで出しゃばりな子」を「リーダーシップがあって積極的な子」と見ることもできるし、「辛抱強く正義感の強い子」を「意固地で怒りっぽい子」と見ることもできる。
 ものは言いようであるが、あばたえくぼと見るか、えくぼあばたと見るかは、相手を好ましく思っているか、嫌なやつだと思っているかで分かれる。
 人さまざまだが、なんでも悲観的に悪意に受け止める人だけではない。不思議なほど前向きに好意的に受け止める人がいる。もしかしたら、ノーテンキなお人好しなのかもしれないが、できればこのような人に子どもの面倒を見てもらいたいものである。このような人は、先ほどの担任のように、子どもだけではなく周囲の人のものの見方まで変える力をもっている。
 ひとところ女子大生の売春が大きく取り上げられたとき、「女子大生が売春をしていると思うからけしからんということになるのかもしれないが、売春婦が女子大で勉強していると思えば、なかなかけなげなことではないか」と言った人がいる。ものは言いようだけではなく、考えようでもある。
2 思いやり
 世の親たちは、自分の子どもが思いやりのある人になってほしいと願っている。一方で、少しでもいい学校に入って、偉くなってほしいとも願っている。思いやりのある偉い人になってくれれば言うことはないが、えてしてこの両立はむずかしい。
 お年寄りに座席をゆずることひとつをとってみても、「思いやり」にはなんらかの犠牲を迫られる場合が多い。立っているお年寄りがかわいそうと、単に「思う」だけなら損はないが、実際に席をゆずる行為を「やる」となると自分が犠牲になることが必要である。思いやりの結果得られるものは、人のために役立つことをしたという自尊感情だけである。大げさに言えば、人類愛に貢献できた自分への満足感である。
 人の犠牲にばかりなっていては、競争社会の世の中での出世はおぼつかない。Aさんの話である。坊やの公平君を膝にのせ、「ウサギとカメ」の絵本を読んで聞かせていた。カメが一等賞で、めだたしめでたしとなった。そこで、Aさんは、努力の大切さを言い聞かせようとした。ところが、膝の坊やが、寝ているウサギのそばをカメが汗をかきかき通っている絵を指しながら、「どうしてカメさんは、ウサギさんを起こしてあげなかったの?寝てちゃダメですよって」と聞いた。
 思いがけない質問に、言葉を失ったAさんは、やがて自分がいかに成績主義に毒されているかに思い至った。言われて絵を見直してみると、ウサギのそばをそっと通りすぎようとしているカメが、なんとなくずる賢く、意地悪そうに見えてきた。
 そのでAさんが「そうか、公平なら起こしてあげるよね。寝ている人に勝ってもしかたないもんね」といったら、公平君は「うん」と大きくうなずいた。
 起こされたウサギは、起こしてくれたカメに感謝することもなく、エリートよろしくすっ飛んで行って、後からのろのろやって来るカメを相変わらず馬鹿にするのだろうなとAさんは思った。そして、この子はなまじ思いやりがあるばっかりに、いつも損をする世渡りの下手な大人になるのだろうなとも思った。そのとたん、こころに太陽をもちながら、出世とは縁遠いかもしれない息子がいじらしくなって、思わず抱きしめてしまったとのこと。
3 分をわきまえる
  6人の幼児が騒々しく走り回っている。母親たちは知らん顔でおしゃべりをしている。見かねたご婦人が「危ないからやめなさい」と注意したところ、母親の一人が「怖いおばちゃんが怒っているからこっちへいらっしゃい」と叫んだのにはびっくり。
 中学生ぐらいの男の子と母親が電車に乗ってきた。子どもが座って足を投げ出したとたんに、母親がその膝を叩いて、「ゆかに引いてあるこの線から前に足を出しちゃダメよ。これはエチケットラインといって、ほかの人の邪魔にならないように引いてあるの」と教えた。近くに座っていた大人どもは、さりげなく足を引っ込めながら、そんな意味のある線だったのかという顔をしている。少なくとも周りの78人の大人が一度にしつけられた感じ。
5歳ぐらいの男の子二人と母親が、元気よく電車に乗り込んできた。母親が「あんたたち座っちゃダメよ。電車賃払わずに乗せてもらってるんだから、邪魔にならないように、この棒につかまってらっしゃい」と怒鳴った。子どもたちは言われたように立っているが、ニコニコと愛らしい。近くのおじさんが、笑いながら「空いているから座っていいよ」と声をかけたところ、母親が「ありがとうございます。でも子どもたちに分をわきまえるしつけをしておりますもので」と言う。近くにいた大人たちは、「分をわきまえる」とは懐かしき言の葉を聞きつるものかなと感じ入っている。
 日本の家庭内暴力は、子どもが親を殴ることだと聞いたアメリカの心理学者が「扶養されている子どもが扶養している親を殴るとは、日本では子どもに分をわきまえさせるしつけをしていないのか」と仰天した。
 電車の中で女子高校生たちがブランド品の持ち物の話をしている。「このグッチの靴は8万円もしたのよ」「○○君のナイキのスニーカーが9万円したのを知ってる?」などなど、高校生の持ち物の話なのかモデルさんの持ち物の話なのか分からないような話ばかりでびっくり。そこで考えた。
 この分では早晩、分をわきまえない子どもたちにすべてを吸い取られ、ドタ靴やヨレヨレ靴さえも持てなくなった一家のあるじどもは、わらじをはいて風呂敷包みを膝にのせて、傍若無人に走り回るガキどもに足を踏まれないように、エチケットラインの内側に足をすくませて電車に乗ることになる」と。
4 今どきの若者たち
 楔形文字を解読したところ「今どきの若者たちは……」と大人たちの嘆きが書いてあったという。それ以来、数千年の長きにわたって、大人どもは若者たちを見ては、世も末だと悪口を言い続けてきているらしい。大人の言い分が本当なら、今ごろ人類は滅びていても不思議ではないはずだが、逆に文明は進歩しているように見えるのもおかしなものだ。
 大人の嘆きの大半は、若者たちのファッションの奇抜さやマナーの悪さに集中している。「男子高校生が化粧するなど理解に苦しむ。まして唇や鼻にピアスとはもってのほかである。昔から男子高校生は弊衣破帽の蛮カラと相場はきまっていたもんだ」と嘆く。しかし、蛮カラは、強い兵隊を作る時代には必要だっただろうが、今日のような男女共同参画社会に生きるためには、男子がお化粧しても少なくともおかしくないのかもしれない。どんなファッションやマナーも、無意味で不適切なものは淘汰され、必要なものは生き残っていく。大人たちが目くじら立てることはない。
 阪神淡路の大震災のとき、予想外の数の若者たちがボランティアとして駆けつけたことは、記憶に新しい。そこには、ロンゲも茶髪もいた。大人たちは、奇抜な格好をした若者たちを少し見直し、頼もしく思った。そして、自分たちが若かったころ、ボランティアとして駆けつけるようなことをしただろうかと、内心忸怩たる思いだった。
 教えている女子大で新入生に、非行少年が特別養護老人ホームで奉仕活動をしている話をした。数日後、クラス委員が献血のポスターを貼らせてほしいと言って来た。どうしたのと聞いたら、自分たちも何か人の役に立つことをしようと話し合って、手始めにクラス全員で献血に行って来たと言う。「オヌシらやるのう」と思っていたら、老人ホームや障害者施設へボランティアに行ったり、自閉症の子どもたちの遠足に付き添ったり、次から次に実行し始めたは驚いた。社会福祉士や介護福祉士を目指す若者も増えているという。今どきの子どもたちは、姿形はどうあれ頼もしい。
世紀には何かとお世話になる「今どきの大人たちをよろしく」と、お願いしたくなる。

注 この随想は、FPICの会員が「東京少年友の会通信」の同じ表題のコラム欄に連載したものから、同会の了承を得て転載したものです。


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