1 岸田教授の嫉妬論
岸田教授は、「嫉妬とは、自我の安定を乱す他者を亡き者にしたい、追っ払いたい、引きずり降ろしたい、そうすることによって自我の安定を回復したいという衝動である」と言います。
自我とは、小さいときから親、先生、友達など身近にいる人たちの眼差しを受けて試行錯誤しながら築き上げた自分らしさ(自分なりの行動基準)です。
自我は、自分も価値ある存在であるという自尊心に支えられているのですが、この自尊心を脅かし傷つけるのは、自分との比較の対象となる自分より優れ、自分より価値があると映る他者です。
自尊心を守り、自我の安定を回復するために、この他者を自分より下に引きずり降ろしたい衝動が嫉妬ということになります。
また、岸田教授によれば、嫉妬による憎しみは、ウジウジした無力な憎しみだとのことです。
それは嫉妬しているのを認めることは、自分の劣等性、敗北を認めることだからです。
勝者である相手を憎むと同時に、優者である相手を尊敬せざるを得ず、これは自尊心が断じて認めたくないものです。
嫉妬者は、相手を尊敬していることを認めたくないために、相手の悪口を言い触らし、相手を優者の位置から引きずり降ろすことによって、自分の尊敬の念を打ち消そうと悪あがきします。
相手を憎みながら、憎んでいることは自分が劣者であることを示すわけですから、一方では憎しみを否認しなければならないわけです。
嫉妬者は、にっちもさっちもいかない袋小路に入り込んで、ウジウジすることになるとのことです。
そして、嫉妬の相手に、自分のあらまほしい理想的な姿を投影して、それと現実の自分の姿とを比べて、劣者としての惨めさに打ちひしがれることになります。
2 和田教授の嫉妬論
和田教授は、「いまの自分より相対的に上にいる人間をうらやむ感情―嫉妬というこの感情は、あらゆる人間が持ち合わせている。
この嫉妬という感情には、ジェラシー型嫉妬とエンビー型嫉妬の2種類がある。
ジェラシー型嫉妬とは、学校や職場などの現実社会において『あの人ようになりたい』『あいつには負けたくない』という具合に目標とする相手やライバルに対し、
『自分の実力を伸ばす』ことで勝ち抜こうというポジティブな嫉妬のことである。
一方、エンビー型嫉妬とは、嫉妬の対象となっている相手をただうらやむだけで自らの実力を伸ばそうとはせず、代わりに足を引っ張ったり悪口を言ったりすることで相手を貶め、
相対的に自らの立場を上にしようというネガティブな志向の嫉妬のことである。
有名人の不祥事やスキャンダルを喜んでしまう感情、あれが典型的なエンビー型嫉妬である」としています。
自己愛が満たされない現在の日本の社会ではエンビー型嫉妬が優勢になっていることを憂えています。
ジェラシー型嫉妬はポジティブで、エンビー型嫉妬はネガティブという分類に、違和感があるようにも思われます。
3 影山教授の嫉妬論
影山教授は、幼児期の子どもが異性の親へ愛着し、同性の親をライバル視して憎悪する、この三角関係(エディプス・コンプレックス)こそが嫉妬の原型で、
嫉妬者と嫉妬者が欲望する対象、その所有者(ライバル)という三項関係が嫉妬の本質であり、欲望する対象が人間なら性愛的嫉妬の三角関係になるとしています。
影山教授は、「児童心理」(2008.6金子書房刊)に掲載された「日本社会における嫉妬心―嫉妬の時代から『空虚な自己』の時代へ」の中で、
「境界性や自己愛性人格障害等の重度人格障害が目立ってきており、エディプス的な三角関係以前の親子の二項関係に基本的病態がある事例が増えてきている。
嫉妬の前提となる濃密な人間関係そのものが結び得ない若者が増えている。希薄な人間関係からは愛情も嫉妬も生まれない。
『空虚な自己』の時代の若者の異性との結びつきは物理的に近い存在よりも、距離が離れた、見知らぬ、顔見知りでない相手への密かな、一方的接近である。
筆者のいう現代型ストーカーが問題となってきている。
恋愛妄想ではなく、空虚な自己を埋める、自己確認型行動として出現している」、
「そこには愛や嫉妬以前の、自分の空虚な自己を埋めるための他者への分別を欠いたしがみつきがあるだけである」と述べています。
つまり、嫉妬の原型であるエディプス・コンプレックスを体験していないと、三者関係の嫉妬ではなく、ストーカーのような二者関係でのしがみつきしかできないとのことです。
4 嫉妬する心とどのように付き合っていくか
人間の一生は、幼児期の同性の親への嫉妬、きょうだいへの嫉妬、友達への嫉妬、同僚への嫉妬、恋人や配偶者への嫉妬など、嫉妬の歴史といえます。
これはまた、愛され、認められることを求めて、密かに孤軍奮闘して傷ついた自我の歴史でもあります。
わたしたちは、この厄介な嫉妬とどのように付き合っていけばよいのでしょうか。
岸田教授は、「児童心理」(前掲書)に掲載された「嫉妬とは何か」の中で、「嫉妬はあまりにもいやらしく卑劣なので、われわれはそれを直視したがらず、
自他の行動に嫉妬という動機がどれだけ働いているかに気づかない。
部下や同僚をいじめる者も嫉妬に動かされているとは思っていない。
嫉妬はしばしば正義の仮面をかぶる。嫉妬が自我に発している以上、われわれは嫉妬と一生付き合わねばならない。
嫉妬から被る被害をできる限り少なくするためには、自分及び他の人々において強く働いている嫉妬を直視し、自覚することが必要であろう。
自覚がなければ、嫉妬にいいように引きずられ、支配される」と述べています。
和田教授は、「幸せになる嫉妬 不幸になる嫉妬」(平成13年12月主婦の友社刊)の中で、嫉妬に悩まされたときの具体的な方策を列挙しています。
一部を掲げると、
「○嫉妬は不自然な感情ではないと認識すること○自分の努力で変えられないものを嫉妬しないこと○自己愛を満たすためのベクトルは多方向に持っておくこと」などです。
当センターの面接相談の事例をも踏まえて、嫉妬心と上手に付き合う秘訣を考えて見たいと思います。
秘訣の第一は、嫉妬を卑劣でいやらしいものと思わず、直視することです。
嫉妬心を直視しないで放置しておくと、眠れないままに嫉妬は妄想の翼に乗って果てしなくエスカレートしていきます。
夫への不倫疑惑に悩んで夫婦同席相談に来たA子さんは、夫の前で涙しながら、相手の女性がセックスの達人のように思われ出したこと、
胸が引き裂かれるような惨めな思いをしていることなどを正直に話し終えたとき、憑き物が落ちたように穏やかな表情になっていました。
「相手の女性を達人にまで育ててしまったのは、A子さんの願望と想像力だとは思いませんか」と言われて、「そうだということが今はよく分かります」と答えました。
秘訣の第二は、相手との優劣を客観的に比べて見ることです。
誰かの存在や言動が訳もなく腹立たしいと感じるとき、あなたはその人に嫉妬していると思われます。
そのとき、自分はその人の何に嫉妬しているのか、容姿なのか、能力なのか、異性にもてることなのか、上司の評価がよいことなのか、自問自答して特定しておくと、
相手より劣っているのは自分の価値のほんの一部に過ぎないと思うことができ、自尊心の傷つきが浅くてすみます。
親の介護の問題で面接相談に来たB夫さんは、言葉の端々に「弟は大学に行かせてもらったから」と言います。
二人ともお米屋を経営しているので、「米穀商には学歴が大事なのですか」と聞いたところ、「大事なのは経験と品物を見分ける眼力です。
私が始めたときは親父がまだ元気で、みっちり仕込んでくれましたが、弟のときは寝込んでしまっていたので、弟は苦労したと思います」というので、
「あなたは米穀大学卒なのですね」と口にすると、「私も大学を出させてもらっていたのですね」としんみりとなり、
「親父の介護の件は、もう少し私が頑張ってみます」と言って帰って行きました。
秘訣の第三は、落ち込んでいる自尊心を回復する方策を実行することです。
嫉妬が高じると、そのことが頭から離れなくなり、引きこもり状態になります。
そんなときこそ自尊心を高めるような趣味や行動への方向転換を図る必要があります。
これも夫への不倫疑惑で夫婦同席相談に来たC子さんは、第1回のときはA子さんと同じように自分の嫉妬心を直視し、心情を吐露しましたが、第2回のときは、
これまで中断していた俳句の吟行に積極的に参加することによって、嫉妬疑惑の呪縛から解放されたと報告してくれました。
秘訣の第四は、嫉妬の相手を無理にでも「好敵手」と心の中で呼んでみることです。
すると不思議なことに憎しみが薄れ、一緒に頑張ろうという連帯感さえ出てきそうです。
嫉妬を明るく競い合うためのバネにできれば、ウジウジと落ち込むこともありません。
嫉妬と一生付き合わねばならないとしたら、石川啄木の短歌「友がみなわれよりえらく見ゆる日よ 花を買ひ来て妻としたしむ」のように、いち早く自覚し、
穏やかな解決策で終わらせたいものです。
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